寿屋の赤玉ポートワインが普及した後に、1958年から放映されたテレビのコマーシャルでUncle Torys(アンクル・トリス)を覚えていますか? そうです、あのウヰスキーのトリスです。 当時はサントリーではなく壽屋(1921年設立)といっていました。 それまではウヰスキーは殆ど輸入物の高級品で庶民には高値の花で、ウヰスキーの宣伝なんてテレビではあまり見かけなかったようです。 赤玉ポートワインで儲かった寿屋は和製ウヰスキーの製造を研究し、昭和4年(1929年)初めて日本製ウヰスキーの発売を開始しました。 その後昭和12年に独特の亀甲紋ビンのサントリーウイスキー角瓶が出たのです。 オールドは1950年でした。
☆ウヰスキーの年表やCMのページがあるサントリーのサイト 私がよく観たのはトリスバーでトリスを飲むと顔が赤くなるシンプルなこのCM、ウィスキーが330円だった。 Suntory Whiskey CM l(1960's) - YouTube Suntory Whisky commercial - Uncle Torys - Cowboys & Indians Suntory whiskey commercial - Uncle Torys saloon - YouTube その寿屋のアンクルトリスCMのおかげで昭和30年代には都心ではトリス・バーなるお洒落な酒場が出現し、一杯飲み屋とは格段の差でハイソな雰囲気を楽しんだようです。 寿屋は自社のウヰスキーを卸ろす場を確保したわけです。 その頃のバーなんて夜も11時になれば看板の灯を消していましたよ。 なんたってコンビになんて何処にも無いから真っ暗でした。 黒い丸太の電柱に裸電球がぶる下がってるだけですから。 多分大抵はスタンド・バー形式だったと思います。(行ったことがない) 対抗馬としてはニッカ・バーができました。 トリスにする? ニッカにする? このニッカウヰスキーというのは元寿屋の技師が設立した会社です。 この評判になったCMは漫画家の柳原良平氏の作品で、このちょっとハードボイルドなキャラクターは一世を風靡しましたね。 トリス・バーのカウンターで一人ウヰスキーを飲むアンクルトリスは今までのCMキャラクターとは違って大変アカヌケしていました。 1961年の「トリスを飲んでハワイに行こう!」キャンペーンが一番有名ではないでしょうか。 まだ海外旅行に行く人が少なかった時代のことです。 その後、寿屋はサントリーウイスキー(1929年から発売)の名を取ってサントリーと改名しました。 なんとなくショックでした。 なぜなら、1954年から始まったRoy James(ロイ・ジェームス氏)(1929年~ 1982年)が司会する文化放送のラジオ番組「トリスジャズゲーム」を楽しみに聴いていたので、ラムゼイ・ルイスのジ・インクラウドと共に、ロイ・ジェームスの口上『寿屋がお贈りする・・・有楽町ビデオホールからお送りします!』のオープニングに馴染んでいたからです。 第二次ジャズ・ブーム(モダン・ジャズ)の到来 The in Crowd - The Ramsey Lewis Trio - YouTube その番組「ジャズゲーム」のお抱え楽団であるBIG Four(ビッグ・フォア)というレギュラーバンドがすごい! 昭和28年に当時のトップ・ミュージシャンで結成され、メンバーは松本英彦氏(テナー・サックス)、中村八大氏(ピアノ)、小野満氏(ベース)とジョージ川口氏(ドラムス)なんですが、公開放送の会場で聴衆から受けたリクエスト曲を簡単な打ち合わせで演奏したのです。 パーフェクト! ※中村八大といえば流行歌の作曲でも知られ、私の一番好きな曲は昭和34年(1959年)に永六輔が作詞して水原弘が歌った”黒い花びら”です。 当時は洋楽はみんなジャズといっていたほどで、音楽の知識はさほど無いものの大いに楽しんでいましたね。 その他にロイジェームス氏は同じく文化放送で1960年開始の5分間番組の「ロイ・ジェームスのいじわるジョッキー(意地悪ジョッキー)」っていう長寿番組を持つなど人気のパーソナリティでした。 文化放送といえば、は1952年開始した、ペレス・プラードのエル・マンボで始まる帆足まり子さんのS盤アワーもあり、洋楽番組は片っ端から聴きましたね。 S盤というのは見た目はLPに似ていますが78回転のシングル・レコードです。 ♪ Que rico el mamboが聴けるページはAudio-Visual Triviaのエントリーのモーターサイクル・ダイアリーズ(ページ下の方のサウンドトラック) そうそう、クインシー・ジョーンズのソウル・ボサノヴァで始まったのは青島幸雄氏の「まだ宵の口!」 でしたね。 ♪Soul Bossa Novaが聴けるAudio-Visual Triviaの記事のイーディ・ゴーメ(ページのなかほど) ジャズで忘れてならないのはソロバン片手のパーフォーマンスで人気だったトニー谷氏です。 昭和26年が第1回だった米ジャズ合戦など、当時のャズ・コンサートの特異な司会者として活躍しました。 どんどん脱線しそうですが、ジャズ流行の当時、喉自慢にもジャズがありました。 1950年代後期に放送された私の好きだったラジオ番組「素人ジャズのど自慢」です。スポンサーがキスミー化粧品で、司会者の丹下キヨ子が出演者にお土産を渡す時のセリフ「キッスしても落ちないのよ」が、子供心にも気恥ずかしかったのを覚えています。 審査員にかまやつひろし(ムッシュ)のパパであるティーブ釜萢がいました。 昭和34年の放送当時、早稲田の学生だった永六輔氏がオープニングの足音の次のキャ~!という叫び声を担当していたのは「きのうの続き」でしたっけ? 永六輔は三木鶏郎氏の冗談工房に出入りしていたというから三木トリローの「日曜娯楽版」だったのかな? 私の記憶では「冗談スリラー」だったと思うけど情報が見つからないのでご存知の方いらしたら教えて下さい。 三木鶏郎といえば森繁久彌と丹下キヨ子のトリオで子供の頃1951年に「ボクは特急の機関士で」というコミックソングが流行りました。 ☆昭和30年代の面白い日本文化についてはこちら(アンクル・トリスの画像も観られます)とこちら(雑誌の記事) data-count="horizontal" data-via="koukinobaaba">Tweet
by koukinobaaba
| 2005-08-12 12:07
| 音楽
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